「ブラッド オブ バハムート」の開発スタッフ
(共同ディレクター・石山貴也)による
ゲーム解説やスタッフインタビューを
随時お届けします!












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開発スタッフが開発スタッフに聞く
マニアックインタビューシリーズ。

今回紹介するスタッフは、
このゲームを楽しく遊べるように造り上げた
開発&ゲームデザイン担当です!


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『ブラッド オブ バハムート』は
ゲームデザインとプログラムを
株式会社シンク・アンド・フィールという
開発会社に委託いたしました。
今回はそちらの担当者2名にお話を伺います。

なお、聞き手は
今作の共同ディレクター、石山です。
横山プロデューサーも立ち会ってますので
ときどき会話に登場します。




■担当したところを紹介


――
それでは、まずブログをご覧の方に
簡単に自己紹介をお願いできますか。


山木
はい。株式会社シンク・アンド・フィール
代表取締役の山木勝義です。


藤本
企画を担当しました、藤本洋介と申します。


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左:代表の山木さん、右:企画の藤本さん


――
山木さんは、開発のディレクションを
担当されていたわけですが……
わかりやすく説明するならば
現場での陣頭指揮を執っていた人、
という紹介でいいでしょうか。


山木
そうですね。
上がってきた書類やゲームをチェックして
あーだこーだ言ったりしましたけど(笑)。
今回、実作業はほとんどやってません。


――
スケジュールやクオリティの
管理監督に徹した感じですね。


山木
そうですね。


――
そして藤本さんは、メインプランナーとして
ゲームデザインを担当していただきました。


藤本
はい。世界観やシナリオはありましたので、
おもにゲームのルールや遊びの部分を作りました。


――
こちら(スクウェア・エニックス)からも
いろいろと注文をしたり口を出したりしましたけど、
うまくまとめて、ゲームに仕上げていただきました。


■自分で遊びたくて


――
では、おふたりのこれまでの経歴を
伺いたいのですけども、
まず山木さんは、今は管理職ですが
元々はプログラマー出身であり
ゲームデザインもやっていらして、
どっぷりとゲーム開発をされていたんですよね。


山木
そうですね。


――
最初は、どのようにしてプログラムを覚えて
ゲーム業界に足を踏み入れたんでしょうか。


山木
そもそもは、やはり小さい頃からゲームが好きで。
ブロック崩しとかインベーダーゲームとかを
リアルタイムで遊んでいた世代なので。
ゲームセンターが不良の溜まり場と
言われていた時代から通ってまして(笑)。


――
もう筋金入りですねえ。
その頃から、ゲームを作ることにも興味を?


山木
と言うか、子供の頃に思った単純な動機としては、
ほら、ゲームセンターに行ってゲームをやると
お金がかかるじゃないですか(笑)。


――
あっ!(笑)
だったら、自分で作れば
タダで遊べるじゃないか、と?


山木
そうなんですよ(笑)。
中学生くらいの頃、世の中に
パソコンというものが出てきて、
仲間たちとパソコンショップに展示されてるものを
いじって遊んでいたんです。
でも、ゲームセンターには新しいゲームが
次々に出てくるのに、パソコンでは
最新のゲームは遊べないんですよ。


――
はい、はい。


山木
最新のゲームで遊びたい!
でも、ない!
じゃあ……作るしかない! と(笑)。


――
その流れで!(笑)


山木
そこで、プログラムを覚えようと。
雑誌に載っていたプログラムを
パソコンショップで打ち込んで
解読したりするのを繰り返して。
高校に入る頃にはパソコンも買ってもらえたので
作ったものを友人と見せ合いながら
覚えていきました。


――
なるほどー。
元々は、自分が遊びたくて作っていたわけですね。


横山
でも、サウンドの水田もこのインタビューで
サントラCDが無いから自分で録音したとう
話をしてましたけど(6月24日の記事 参照)、
「無いなら作っちゃえ」という発想がすごいね。


――
今は、ありますからね。なにかと。
当時はパソコンの処理能力も貧弱で
苦労したんじゃないかと思いますが。


山木
でも私の場合、最初は低スペックの
マシンで作る環境から入っていって、
ちょうど自分のスキルの上昇に合わせて
マシンが進化していった感じなので、
うまい具合に学べてきたところがあるんですけど。


――
あ、なるほど。でも今は。


山木
今の若い人たちって、パソコンひとつとっても
すごくスペックが高いじゃないですか。
3Dがバリバリ動きますよ、とか。


――
はい、はい。


山木
自分でゲームを作ろうと思っても
いきなりハードルが高すぎて
手が出ないんじゃないかと思うんですよ。


――
あー、確かに。
今のゲームを見ていたら
「遊びたいから自分で作っちゃえ」って感覚には
なりにくそうですね。
そのあたりのきっかけは、当時ならではと
言えるのかもしれません。


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■出世作の開発


山木
それから情報処理系の専門学校を出て
最初は業務用のプログラムを組む仕事に就きましたが
2~3年勤めた頃、友人から
ゲーム開発の会社を立ち上げるという話がきて、
会社を辞めてそっちに参加したんです。


――
おお。ゲーム開発の夢を叶えるため
思い切って決断をしたわけですね。


山木
まあ、若かったので、勢いで(笑)。
でも最初はまだ何も作ってないので、
お金が無いわけじゃないですか。会社に。
だから昼間は派遣で働いて、
夜に戻ってきてゲームを少しずつ作る、という
「出稼ぎ組」がいまして(笑)。


――
えっ!? 会社運営のお金を、
外で働いて稼いでいたわけですか?(笑)


山木
そうです。
会社としておかしいですけど(笑)。


――
うわー(笑)。
でも、そこまでしてでもやりたいという
熱意があったわけですよね。


山木
そうして完成したのがプレイステーションの
ボクシングゲームなんですけど。
3Dの人の動きとか、今では当たり前のことも
当時は何もかも初めてのことなので
試行錯誤しながら作り上げました。


――
当時のスタッフは何人くらいだったんですか?


山木
5~6人で、マンションの一室に
もうタコ部屋状態で。
寝て、起きて、プログラム打って、
また寝て……みたいな(笑)。


――
(笑)


山木
開発機材も1台しかなかったので、
シフト制で「朝組」と「夜組」に分かれて。


――
それはまた、苦労が伺えますね……。
でも、自分も作り手だからかもしれませんが
ちょっと楽しそうにも感じます。


山木
そうですね、充実してました。
今、そんなふうに開発しろと言っても
無理な話ですけど、
それがやりたい人間が集まってたので
そこに誰も不満はなかったというか。


――
キツいながらも。


山木
「これを世の中に出すんだ!」という
モチベーションだけは高かったです。
で、それなりに評価も得られて、
そのおかげでようやく会社として成立して、
マンションからも脱出できました(笑)。


――
おめでとうございます!(笑)
で、そこが母体となって
今の会社もできたわけですか?


山木
そうですね。
そこから分社化することになって。


――
新会社、シンク・アンド・フィールの
社長に就任し、現在に至るわけですね。






続きます。

明日は、ゲームデザイン担当の
藤本さんの経歴を伺います。


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